メディナ神父様のお話し(2013年6月30日年間第13主日ミサ説教より)
ヨセフ・メディナ神父様は 、2019年12月10日に帰天されました。享年95歳。
イエズス会生活80年、その間 光教会には1980年から1992年まで主任司祭として司牧されておられました。神父様の言葉に触れたいと思い 広島祇園教会のホームページより転載させて頂きました。
神父様ありがとう。
■ルカによる福音 9:51-62 (当日の聖書のみことば)
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を
固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために
準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。
イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、
彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。
そして、一行は別の村に行った。
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、
どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には
枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。
あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、
あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、
神の国にふさわしくない」と言われた。
■メディナ神父さまのお話 (要約)
皆さんの中には「このおじいちゃんは何者か」と思う方もおられるでしょう。
今から43年前の4月5日、私はこの教会での最後にミサを司式しました。
歳月が経ち、私もずいぶん変わりました。まず、目が悪くなりました。視力は0.08
ですから、すぐそばまで近づかないと、相手が誰か分かりません。「メディナ神父は私を見ても挨拶もしない」と言う人もおられますが、どうか勘弁してください。
今日の聖書朗読についてお話します。
パウロは「ガラテヤ人への手紙」の中で、「自由でありなさい」と説きました。自由とは何か。その答えはとても簡単です。
たとえばある人がアルコール中毒だとします。飲まないと落ち着かない。言い換えれば、その人はアルコールの奴隷です。腹がたってしょうがない人は怒りの奴隷です。また、お金大好きで、金もうけが趣味の人は金の奴隷。すなわち自由でありません。欲望に従って生活する人は欲望、肉の欲の奴隷です。そんな人は私たちのまわりにも一杯います。私たち自身もその一人であるかも知れないと反省してみなければなりません。赦さない人は怒りの奴隷です。赦すことができれば、その人は自由です。
私たちは自由になるためにイエスに従っている、とパウロは言います。では、自由になるためには何が必要か。自由になるためには愛が必要です。自由でない人は自分を愛しているだけ、自分の都合のいいことを選ぶだけです。愛する者とは、神の喜びを求めるとともに、自分のまわりの人が幸せであるようにつとめている人なんです。私たちは幸せを与えるために主に呼ばれているのです。本当の幸せとは、自分のまわりの人たちに幸せを与えることです。
パウロは言います。
律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。……霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
愛に生きる者、神と人とを愛する者は、いちいち律法を読まずとも、律法を守れるのです。
朝、「今日出会うすべての人に幸せを与えます」と言える人はよい信者、イエスに従う人です。しかし愛することは簡単ではありません。愛は見返りを求めません。
無償です。なのにどうして愛するのか。それは、天の父が、よい人の上にも悪い人の上にも雨を降らせ太陽を昇らせる方であり、私たちもそのようにあれ、
とイエスさまがおっしゃるからです。
自分が大事にされないとか、これはね、つまらないことですよ。そんな不満は人にとって全く無益です。自分が大事にされなくてもいい。私は人を大切にします。
それが私たちの目的なんです。
では、具体的に何をすればいいのか。一つは福音宣教、すなわち幸せを与える言葉を人に伝えることです。朝の挨拶に始まり、相手の喜びを「おめでとう」と共に喜び、悲しみを共に悲しみ、励ます。これが愛です。
43年前、私が3年間この教会にいた頃は、毎週500人の人がミサにあずかり、聖堂は人で一杯でした。それが少なくなってきたのはなぜか。今の日本の教会には愛がないからです。教会の外に向かっていないからです。自分が楽しく信仰生活を送れたら、それでいいと思うのは大きな間違いです。イエスさまの救いの恵みを一人でも多くの人に知らせ、喜びを与えなければ。
今、世の中には、欲望によって動かされている不幸な人が沢山います。
世の中には笑い声が聞こえなくなった。私たちはそれを知りながら、喜びと癒しを与えていない。
「自分を愛するように他人を愛しなさい、天の父を愛しなさい」とイエスさまは言われました。この愛がなければ、私たちはただ、「律法」を守るだけになってしまいます。そこに喜びはありません。
私は運転するとき法律を守ってきました。でも、うれしいと思ったことはありません。警察のごやっかいにならなくてよかった、それだけです。愛の中に行きていないと、喜びがないのです。
一つ言います。私は来月89歳になります。当然、身体にはさまざまな衰えが生じています。しかし私は今、一生涯の最高の喜びの季節にいるのではと感じています。
私は毎朝、次のような祈りを捧げます。
「今日の私の祈りと働き喜び苦労はすべてイエスさまのみこころに捧げます。主よ、あなたのみこころにかなうよう生きます。そしてあなたとともに、人の心に愛を注ぎます。」
このように祈ると、その日、人に親切にすることが唯一の目的となります。
そして夜になると、感謝します。「主とともにいられたから、人に親切にできました。
あの時も人に対して愛を示す事ができたし、主であること、父であること、救い主であることを感じさせることができました。」
これは私が司祭だから、というわけではありません。皆さん方信者も同じです。
なぜなら私たちは皆、イエスさまの弟子だからです。祈りと働き、喜びと苦労を
すべて捧げる。そしてマリアさまの取り次ぎを願います。
「母マリアよ、この捧げものが、みこころにかなうよう、いつも導いてください。」
このようにするなら、あなたがたの生活が変わります。そして聖堂に人があふれるようになります。この聖堂は、この周囲にくらす、すべての人が喜んで訪れるために建てられたのです。
もう一つ、今日の福音朗読について話しておきたいことがあります。
福音朗読には、イエスさまに従いたいと願う三人の人が登場します。
きっと、全員がイエスさまを素晴らしい人だと思っています。
しかし彼らはイエスのために犠牲を捧げようとはしません。
「枕がないと、よく眠れない。翌日、元気に過ごせないじゃないか」
「イエスさまのおっしゃることは厳しすぎる。」 そんな思いを抱く方もおられる
かも知れません。
しかし、彼らがイエスさまに従わなかったのは、イエスさまが厳しいからではなく、
イエスさまを愛していなかったからです。
私たちの信仰生活の中心にはイエスさまがおられます。十字架が必要です。
それは私たちがイエスさまの弟子である印です。私たちは皆、自分の十字架を
背負ってイエスさまに従いなさいと招かれています。
でも愛がなければ十字架はかつげません。愛があれば、十字架は軽くなり、
誇りとなります。証し人となれるよう祈りましょう。