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カトリック光教会の勉強会 

神を信じる私たち

◆信仰の言葉 
わたしたちは信仰を伝える文言を信じるのではなく、それが表す現実、信仰によって「触れる」ことのできる現実を信じるのです。「信仰者の(信仰の)行為の対象は文言ではなく、文言が表している現実です」。しかし、この現実に近づくために、わたしたちは信仰を表明する文言を用います。これらは信仰を表現し、伝え、共同で祝い、自分のものにし、信仰にいっそう深く生きることを可能にします。 

◆神のみを信じる 
                           きえ

信仰はまず、神に対する人間の人格的な帰依です。これは同時に、神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意を伴います。キリスト者の信仰は神への人格的な帰依と神が啓示された真理への同意ですから、だれか一人の人間を信じることとは違います。全面的に神に信頼し、神が語られることを固く信じるのは、正しく、よいことなのです。神でないものをこのように信じることはむなしく、誤っています。 

◆神の御子イエス・キリストを信じる 
キリスト者にとって、神を信じることには必ず、神が遣わされたかた、すなわち、神のみ心にかなう「愛する御子」を信じることが伴います。神は御子に聞くようにと、わたしたちに命じられました。イエスご自身が弟子たちに、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14∙1)といわれたのです。わたしたちがイエス・キリストを信じることができるのは、このかたご自身が神であり、人となられた御言葉だからです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子である神、このかたが神を示されたのである」(ヨハネ1∙18)。御子は「父を見た」(ヨハネ6∙46)ので、彼だけが神を知らせ、示すことができるのです。 

 

◆聖霊を信じる 
イエスの霊を受けることなしに、イエス・キリストを信じることはできません。 イエスとはどのようなかたであるかを人間に知らせるのは聖霊です。実際、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはい

                                                   きわ

えないのです」(一コリント12∙3)。「霊はいっさいのことを、神の深みさえも究わめます。……神の霊以外に神のことを知る者はいません」(一コリント2∙10-11)。神だけが、神のすべてをご存じです。わたしたちが聖霊を信じるのは、聖霊が神であるからです。教会は唯一の神、父と子と聖霊への信仰をいつも公言します。 

 

◆聖母マリアに模範となって神を信じる私たち 
マリアは「信じた方は、なんと幸いでしょう」 マリアは、信仰による従順をもっとも完全に具現します。信仰

                                      じゅだく

をもって、マリアは天使ガブリエルによるお告げと約束を受諾しました。「神にできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ということばを信じ、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように」(ルカ1∙38)と同意したのです。エリサベトはマリアに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1∙45)と挨拶しました。マリアはこの信仰のゆえに世の人からも幸いな者と宣言されるのです。 マリアの信仰は生涯にわたって、ご自分の御子イエスが十字架上で死ぬという最後の試練に

        ゆ                                     じょうじゅ

遭った時、揺らぐことはありませんでした。マリアは神のことばの「成就」をいつも信じていました。 

 

◆信仰は人間的な行為である 
信じることが可能なのは、ただ、神の恵みと聖霊の内的な助けによります。そうではあっても、信じることはまさに人間的な行為なのです。神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、人間の自由にも知性にも反することではありません。そもそも、人間関係の場合(たとえば男と女が結婚するような時)でも、相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じ、その約束に信頼してその人との関係を結ぶことは、人間の尊厳に背くことではありません。そうであればなおさらのこと、「ご自分を啓示される神に信仰によって知性と意志を全面的に服従させ」、神との親しい交わりに入ることで、わたしたちの尊厳が傷つけられることはないのです。 信仰においては、人間の知性と意志は神の恵みに協力します。「信じるとは、恵みによって神に動かされた意志の命じるままに、神の真理に同意する知性の行為です」。 

 

◆信仰の自由 
人間らしくあるためには、「神に対する人間の信仰による応答は、自由意志によるものでなければなりません……。それで、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志によるものです」。「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いています。それで、人間は良心において束縛されていますが、強制はされていません。……このことは、

​                                                       うなが

イエス・キリストにおいてもっともよく示されています」。キリストは信仰と回心を促しましたが、決して強制はなさいませんでした。「真理に証明を与えはしましたが、それを反対者に力づくで押しつけることはしませんでした。その国は十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展します」。 

 

◆信仰を保ち続けること 
信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。わたしたちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。聖パウロはテモテに警告しました。「雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持

​                      ざせつ

って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました」(一テモテ1∙18-19)。信仰に生き、信

                       つらぬ

仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、わたしたちは神のことばによって信仰を養わなければなりません。信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません。信仰は「愛の実践」(ガラテヤ5∙6)を伴い、希望に支えられ、教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。 

 

■結論 
信仰は、ご自分を啓示される神に、人間が自分のすべてをあげて人格的に帰依することです。信仰は、神がご自分の行いとことばによって、ご自分についてなされた啓示に対する知性と意志の同意を伴います。 

したがって、「信じる」とは、二つのことにかかわっています。神と真理です。すなわち、真理を証言する神を信頼して、真理を受け入れるのです。
 
信仰は神の超自然的なたまものです。信じるために、人間は聖霊の内的な助けを必要とします。 

2024年5月~ 担当司祭:グエン・クアン・トゥアン神父

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