ミサのご案内
聖 母 マ リ ア
天使はマリアのところに来て、“あなたに挨拶します、恩寵にみちたお方! 主はあなたと共においでになります。あなたは女の中で祝福された方です”といった(ルカ1の28)
イエス・キリストの一生についての物語はひとりのおとめの話しから始まります。そのおとめは名をマリアと言いました。マリアは今のイスラエルの北の方にあるガリラヤの国のナザレという小さな町に住んでおり、ヨセフという名前の人と結婚することになっていました。マリアは当時の一般のユダヤ人の娘たちと同じように簡素な生活を送っており、神の召し出しを受けて救い主の母になるというようなことは夢にも考えていませんでした。
もうすぐヨセフと結婚するというときになって、マリアは、神がお定めになった自分の歴史的な地位に目ざめるようになったのでした。と言うのは、ある日何の前ぶれもなく、神からつかわされた天使があらわれてマリアは驚くべきことを知らされたのです。
“神の恩恵にみちたお方!主はあなたと共においでになります。あなたは女の中で祝福されたかたです”
(ルカ1の28~38)
天使は、なおも言葉を続けます。「おそれるな、マリア!あなたは神の御前に恩恵を得たのです。あなたはみごもって子を生むでしょう。その子を、イエスと名づけなさい。それは偉大なかたで、いと高きものの子といわれます。・・・その国は無窮のものです」天使の言葉は前よりもさらに不思議さを加えてきます。そこでマリアは「わたしはまだ男の人を知らないのに、どうしてそんなことになるのですか?」と聞きました。天使はその意味を説明して次のように言いました。「聖霊(神)があなたにくだり、いと高きものの力のかげがあなたをおおうのです。生まれる御子は聖なるおかたで、神の子といわれます」天使の言葉を神のおぼしめしと考え、マリアはイエスの母となることを承諾なさいました。「わたしは主のはしためです。あなたのお言葉のとおりになりますように」こう答えた時、神の御力によってマリアはおとめでありながらイエスをその胎内にやどしました。
神は、私たちと同じようにマリアをお造りになったのです。しかし、神は彼女を特別な目的のために、特別な祝福を与えてお造りになりました。神は、マリアを神ご自身の御子(世の救い主)の母親にするためにお造りになったのですが、彼女は生まれた瞬間からすべての罪のけがれを免れ、この偉大な光栄を受けるにふさわしいかたでした。彼女は一点のけがれもない心の持ち主で、清らかな一生を送りました。私たちがマリアに特別な敬意と尊敬を示すのは当然であり、また、私たちは汚れのない生活を送り、キリストのもとに召されるために、マリアに見習うように努力すべきであります。(カトリック教会の教え)
1日(日)諸聖人 午前 9時
2日(月)死者の日 午前10時
6日(金)年間第31金曜日 午前10時
8日(日)年間第32主日(聖歌を歌ふ会) 午前 9時
13日(金)年間第32金曜日(聖書勉強会) 午前10時
15日(日)年間第33主日(七五三祝福・ミニバザー)午前 9時
20日(金)年間第33金曜日 午前10時
22日(日)王であるキリスト(教会の守護者お祝い) 午前 9時
27日(金)年間第34金曜日(聖書勉強会) 午前10時
29日(日)待降節第1主日 午前 9時
(典礼委員会と教会委員会 14時~ )
『 11月2日 死者の日 』
✤死者聖徒の交わり
教会は天国の諸聖人を祝った翌日、すなわち11月2日に死者の霊を記念する。これは旅する教会(この世)の信者と天上の教会(天国)の聖者と苦悩の教会(煉獄)の霊魂とこの世の信徒同志が一致団結して各自の功徳を譲り合いながら、あるいは霊的善を交換しながら助け合うこと、いわゆる「聖徒の交わり」を深めるためでもある。死者の霊は、小罪に汚れていたり、まだ罪の償いを果たしていなかったりすれば天国の至福に入る前に煉獄で清められねばならない(フィレンツェ公会議、1438年)。これは神の至聖と正義を考えれば当然なことである。すなわち至聖なる神は、その聖性と氷炭相いれない罪に汚れた霊魂の浄化を望むはずであり、しかも公正な審判者である神は、完全な罪の償いを要求されるに違いないからである。
✤煉獄の苦罰 は火であると一般に信じられている。
つまり煉獄の霊魂は、その罪の軽重、多少に応じて、こうこうと燃え上がる火の中で浄化される。それにまして、一層苦しく感じるのは神を直視できないことである。この世では、いくら悲惨な目にあっても、周囲の人の慰めや五官の楽しみなどで、いくらかは気を紛らわすことができる。ところが肉体を離れた霊魂には、それができない。霊魂は、その本性からして必然的に創造主なる神に向けられているので、自分の幸福の源になる神をひと目でも仰ぎ見て楽しみたいとしきりに憧れる。この激しい欲求とともに、神の美しさ、その善さ、その愛すべきこと、筆舌に尽くし難いほどの天国の至福などが、始終眼の前にちらついてくる。それを思うと一刻も早く天国に昇りたくて矢も盾もたまらないのだが、残念なことにそれが許されない。この限りない欲求不満に加えて、果てしない苦痛のどん底に独り寂しく取り残されるので、ますますやるせない苦痛を覚える。つまり「煉獄の苦痛は、この世において人が耐え忍ぶことのできるすべての責め苦、いな、想像することのできるすべての責め苦よりも、まだまだ耐え難いものである」(聖セザリオ)
