ミサのご案内
イエスのみ心の月
イエスのみ心は全人類に対する神の愛の象徴としてイエスの心臓を表し、その信心はイエスのみ心に表される神の愛を思い起こし、その無限の愛のしるしであるみ心をたたえるものとして中世に始まりました。特に聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-90)がみ心の信心についての啓示を受けて17世紀にフランスで広まりました。
1675年6月16日、この聖女はご聖体を前にして、イエスの愛にこたえたいという思いに駆られました。そのときイエスは、愛情に燃えているみ心を示して、人々の間に存在する冷淡な心を嘆かれ、イエス自身の愛に倣ってその心を尊ぶことを勧められました。
またこのようなイエスの出現が数回にも及び、ご聖体の祝日(キリストの聖体)後の金曜日をみ心を礼拝する特別な祝日として定めるようにとのお告げにより、み心の信心の内容と形式が明確にされるようになりました。
そして1856年に教皇ピオ9世によってイエスのみ心の祭日がご聖体の祝日後の金曜日に全世界で祝うことが定められました。ご聖体とみ心の主日がおおよそ6月に祝われるというこのような歴史からして、次第に6月が「イエスのみ心の月」と自然に浸透し、制定されてきたことは十分に考えられます。
教皇ベネディクト十六世は、イエズス会のコルヴェンバッハ総長宛に、み心の信心を勧めたピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』(1956年5月15日)発布50周年を記念する書簡(2006年5月15日付。発表は5月23日)を送り、こう述べています。「槍で刺し貫かれたイエスの脇腹(ヨハネ19・34参照)を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。・・・・『槍で刺し貫かれた脇腹』の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ること(み心の信心)を、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。刺し貫かれた心という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます」。
み心の信心は、教会において基礎となるものであり、キリスト教の中心といえるものでありますから、イエスのみ心の限りない愛に対して、できる限りの愛をもってこたえるというみ心の信心の目的をしっかりともちながら、特にこの月を過ごしていきたいものです。(カトリック中央協議会)
3日(金)聖トマ使徒 午前10時
5日(日)年間第14主日 午前 9時
10日(金)年間第14金曜日 ミサなし
12日(日)年間第15主日(社会教説) 午前 9時
17日(金)年間第15金曜日 ミサなし
19日(日)年間第16主日(聖体賛美式と役員会) 午前 9時
24日(水)年間第16金曜日(聖書勉強会) 午前10時
26日(日)年間第17主日 午前 9時
31日(金)聖イグナチオ(ロヨラ)司祭 午前10時
祈 り と は 何 か
私たちにとって、祈りとは心のほとばしりです。
天に向ける素朴なまなざしです。辛い時にもうれしい時も天に向けてあげる感謝と愛の叫びです。
✧ 祈りは神のたまもの ✧「祈りとは心を神に上げること、あるいはふさわしい善を神に願うことです」 わたしたちは、祈るときにはどこから話しているのでしょうか。思い上がった高慢や自我からでしょうか、それとも謙虚で打ち砕かれた心の「深いふちの底」(詩編130∙1)からでしょうか。へりくだる者は高められるのです。祈りの基本は謙虚さです。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(ローマ8∙26) 謙虚さこそが、祈りのたまものを無償でいただくために必要な心構えなのです。人間は神の物乞いなのです。
「もしあなたが、神のたまものを知っていたならば」(ヨハネ4∙10) 祈りのすばらしさは、わたしたちが水を求めてやって来る井戸のほとりで明らかになります。そこに、わたしたちに会いにキリストは来られます。キリストがまずわたしたちを捜しに来て、水を願われます。イエスは渇いておられ、その願いはわたしたちを慕っておられる神の心の奧底から出てきているのです。祈りとは、わたしたちが気づこうと気づくまいと、神の渇きとわたしたちの渇きとの出会いなのです。神は、わたしたちがご自身を渇望することに渇いておられます。
人間の祈りはどこから出てくるのでしょうか。祈りの表現(動作やことば)がどのようなものであろうと、祈っているのはその人そのものです。しかし聖書は、祈りがほとばしり出る場として、魂や精神、そしてもっとも頻繁に(千回以上)心を挙げています。祈るのは心です。心が神から離れているならば、祈りのことばはむなしいものです。
キリスト教的祈りとは、神と人間とがキリストにおいて契約を結ぶことです。それは、聖霊とわたしたちから出て、人となられた神の御子の人間としての意志に結ばれ、そっくりそのまま御父へと向けられる、神と人間との行為です。(カトリック教会のカテキズム)
